あんただけが頼りヨ(2日目前半) [日々の徒然]
新郎新婦はキリスト教徒でもないし、ましてカトリックでもない。
挙式してくれる教会を探していたら、引き受けてくれた教会が安里教会だったそうだ。
「結婚式の前に、カトリック教会のミサに出てみたい」
という新郎の母親の希望で、一緒に朝6:10のミサに出席すべく5:45に起床。
ところが普段と事情が違って教会でのミサでなく、主任神父様のミサではないらしい。
教会はもぬけの殻だった。
自分は着任したばかりでよく分からないな、、、と言いながらも司祭館から出てきてくださった。
「私は今日は当番じゃないとよ」
「台風もきよるなぁ」
「あんたたちが台風じゃなかとね」
とおっしゃるも、私が
「昨日お電話差し上げたイノウエです!東京から来ました!」
と言ったら
「よし、じゃあ私があんたたちのためにミサをあげてやろう。あんたのためよ。」
と言って下さった。
カトリック信徒はわたし一人だけ。
「祭壇、準備できるね?」
「はい!」
「朗読はここよ」
「はい!」
「答唱詩編もあんたが歌いなさい」
「えぇ!?」
「歌えんとね」
「いえ、じゃあ、頑張って歌います」
「そうしなさい」
司祭が招き、信徒が答える、そのすべてを他の三人は全く知らないので、
神父様と私だけのやり取りだった。
ミサ中は緊張や焦りでよくわからなかったけれど、ミサ後に
「あんたのためにミサをあげたんだから、お祈りしなさいよ」
と言われた台詞が、以来ずっとわたしの心に響いている。
結婚式では、私の顔と名前を覚えた神父様から
「井上さん、井上さんはどこかね。これね、朗読。信徒さんたちに挨拶して一緒に答唱詩編やら聖歌やら歌いなさいね。あれをしたら、今度はこっちね、これもしてね」
とポンポン指令が飛んでくる。
「あ、あの、わたし新郎側の証人で署名もしないと・・・」
「じゃあそんときは出てきてね。それからあなた、楽器持ってたね、何か弾きなさい」
「ええ!?式では弾く予定ではありません」
「持ってきたんだから弾きなさい。アベ・マリアはどうね」
「人前で弾いたことはありません(あるけど大コケしました)」
「弾いたことなくても聞いたことはあるでしょう。オルガニストと相談してね」
「え。えええええーーーー!?」
そして極めつけの一言。
「参列者でカトリック信者はあんただけ。いいね、あんただけが頼りよ」
なーーーーんと!
なんか知らないけど大変なことに。
そして結局、結婚式の写真を撮るひまなどなく、
朗読して、アナウンスして、答唱詩編も聖歌も歌って、証人の署名もして、そしてなんと、グノーのアベ・マリアをぶっつけ本番で弾くことになった。
オルガニストの方はプロで、
「問題ありません、大丈夫ですよ。わたしがドレミを言いながら弾きますから」
と言って下さり、実際伴奏しながらドレミをささやいて下さるのだが、ドレミの分からないわたしには大混乱だった。
そして、あろうことかアベ・マリア演奏中に「誓いのキス」だったので、私はバッチリ見逃した。ノーゥ!
でも本当に主任神父様にはお世話になりました。
この体験がきっと、私の人生に大きなキー・ストーンになると思う。
受け取った恵みの大きさに圧倒されてボーっとしていたら、その夜やってきた台風に吹っ飛ばされそうになった。
続く。
挙式してくれる教会を探していたら、引き受けてくれた教会が安里教会だったそうだ。
「結婚式の前に、カトリック教会のミサに出てみたい」
という新郎の母親の希望で、一緒に朝6:10のミサに出席すべく5:45に起床。
ところが普段と事情が違って教会でのミサでなく、主任神父様のミサではないらしい。
教会はもぬけの殻だった。
自分は着任したばかりでよく分からないな、、、と言いながらも司祭館から出てきてくださった。
「私は今日は当番じゃないとよ」
「台風もきよるなぁ」
「あんたたちが台風じゃなかとね」
とおっしゃるも、私が
「昨日お電話差し上げたイノウエです!東京から来ました!」
と言ったら
「よし、じゃあ私があんたたちのためにミサをあげてやろう。あんたのためよ。」
と言って下さった。
カトリック信徒はわたし一人だけ。
「祭壇、準備できるね?」
「はい!」
「朗読はここよ」
「はい!」
「答唱詩編もあんたが歌いなさい」
「えぇ!?」
「歌えんとね」
「いえ、じゃあ、頑張って歌います」
「そうしなさい」
司祭が招き、信徒が答える、そのすべてを他の三人は全く知らないので、
神父様と私だけのやり取りだった。
ミサ中は緊張や焦りでよくわからなかったけれど、ミサ後に
「あんたのためにミサをあげたんだから、お祈りしなさいよ」
と言われた台詞が、以来ずっとわたしの心に響いている。
結婚式では、私の顔と名前を覚えた神父様から
「井上さん、井上さんはどこかね。これね、朗読。信徒さんたちに挨拶して一緒に答唱詩編やら聖歌やら歌いなさいね。あれをしたら、今度はこっちね、これもしてね」
とポンポン指令が飛んでくる。
「あ、あの、わたし新郎側の証人で署名もしないと・・・」
「じゃあそんときは出てきてね。それからあなた、楽器持ってたね、何か弾きなさい」
「ええ!?式では弾く予定ではありません」
「持ってきたんだから弾きなさい。アベ・マリアはどうね」
「人前で弾いたことはありません(あるけど大コケしました)」
「弾いたことなくても聞いたことはあるでしょう。オルガニストと相談してね」
「え。えええええーーーー!?」
そして極めつけの一言。
「参列者でカトリック信者はあんただけ。いいね、あんただけが頼りよ」
なーーーーんと!
なんか知らないけど大変なことに。
そして結局、結婚式の写真を撮るひまなどなく、
朗読して、アナウンスして、答唱詩編も聖歌も歌って、証人の署名もして、そしてなんと、グノーのアベ・マリアをぶっつけ本番で弾くことになった。
オルガニストの方はプロで、
「問題ありません、大丈夫ですよ。わたしがドレミを言いながら弾きますから」
と言って下さり、実際伴奏しながらドレミをささやいて下さるのだが、ドレミの分からないわたしには大混乱だった。
そして、あろうことかアベ・マリア演奏中に「誓いのキス」だったので、私はバッチリ見逃した。ノーゥ!
でも本当に主任神父様にはお世話になりました。
この体験がきっと、私の人生に大きなキー・ストーンになると思う。
受け取った恵みの大きさに圧倒されてボーっとしていたら、その夜やってきた台風に吹っ飛ばされそうになった。
続く。
沖縄へ行ってきました。 [日々の徒然]
従弟の結婚式に参列するため、初めて沖縄を訪れました。
まっっったく予備知識のないまま、どこへ行って何を食べるべきか何を見るべきかも全く下調べ無しで飛行機に乗ってしまいました。
沖縄について得た知識は、長崎にいた頃に学んだ戦争と基地関係のみと言っても過言でないくらい。
こりゃしまったな、と思っているときに、機内でクーポンブックを配っていたので早速ゲット。
これがこの後、沖縄滞在中ずっと活躍してくれ、ボロボロになるまで使いました。
めくればめくるほどしまったな、少しは調べてからくるんだった、と思いました。
こんなときは・・・・・・・・・・・・・乗務員さんに聞くのがいちばーーーん!
那覇市歴史博物館と、県立博物・美術館、どちらがお勧めかを聞いたのですが、行ったことのある乗務員さんはいなかったそうで
「代わりといってはなんですが」
と、美味しい沖縄料理のお店を教えてもらいました。う、うん、ありがとう。
いつものようにJAL便を利用したのですが、楽器のことをとてもよく気遣ってくださるし、本当に助かります。
飛行機を降りるときにメッセージ付きのキャンディーセットまで頂きました。ど、どうもです。
こういう風景を見ると、ガンダムを思い浮かべてしまいます。ガンオタじゃないってば!
空港からは”ゆいレール”を利用。
一日乗車券を購入しました。
ゆいレールの一日乗車券は改札機を通してから「24時間」使用できるので、足掛け2日間利用できて助かりました。
ホテルへ直行せず、那覇市歴史博物館へ。
やはり何も知らないまま沖縄に滞在するわけにはいかない、と思ったから。
本当に小規模な展示でしたが、初心者の私にとっては非常にありがたいサイズでした。
小規模ながら、国宝も10点ほど見られるし、これがまたすごい。
漆器と螺鈿で装飾された硯箱が見事でした。
でも、やっぱり戦前・戦中・戦後の展示コーナーは涙無しでは見れませんでした。
むしろ素晴らしい美術品や伝統工芸品を目の当たりにしたからこそ、そんな文化と歴史を持った人々がどれほど軽視され、蹂躙され、巻き込まれてきたか、そして今もそうだということがつらくてたまらなかったです。
見るべきだし、見てよかったですし、知らずにいられない現実だと思いますが、やはりつらいなと思いました。
従弟の結婚式はカトリック安里教会で行われました。
中はこんな感じ。
ホテルの自販機でさんぴん茶を発見。イラストが沖縄らしくて素敵です。
でも、出てきたのはコレ。
詐欺だろ。
いいけどさ・・・マブヤーでも。いいけど・・・・でも、よくない。
一日目、終わり。
私とあなたの物語 [問はず語り]
あの日バイオリンと小さな荷物を二つ背負った私は、見つからないように見つからないようにって、そればかりを願いながらその場所を出た。
たどり着いた「隠れ家」に転がり込んだ後も、カーテンも閉めて電気も消して何時間もじっと座って息を殺していた。
暗くなっても電気をつける気になれず、テレビをつけてみてもその音量に怖じ気付いてすぐに消した。
誰かが追いかけてくるんじゃないかって、そんなはずは絶対にないのに、どうしても気になった。
眠れない一晩を布団の中でまんじりと過ごし、夢なのかぼやけた意識の断片にいるのかわからなくなった頃、となりにある教会の鐘が鳴った。衣擦れの足音がかすかに聞こえる静かな夜明けだった。
どうせこのまま眠れずに会社に行くのだから、とミサに出た。
朗読された聖書は「トビト記」だった。
トビトは非常に善良な、神に忠実で正しい人であったのに、昼寝の最中に鳥の糞が落ちてきて失明してしまう。
びっくりな幕開けに眠気が吹っ飛んだ。
続きが気になれば聖書を開いて読めばいいのだけど、なんだかそれもつまらない。
続きは次の日に読まれると知ったので、つられて次の日も朝のミサに出た。
トビトには次々に災難が降り懸かる。
なんでこんな目に遭うのか、
神様いっそ、私の命を今終わらせてください、とトビトは長い長い長い長い祈りを捧げる。やたら長くてそれだけで一日分の朗読箇所になっていた。
いい人に限ってひどい目に遭う。鳥の糞で失明だけでもほんと凹むよ、いろんな意味で。
一方その頃。
場所は遠く離れたところで、サラという若い女性にも悲劇が起きていた。
え?トビトはどうなったの?
と思ったけど、こちらもなかなかな悲劇。
7回も結婚したのに初夜を迎える前に相手が死んでしまうのだった。花嫁と結ばれずに死んでしまった7人の花婿もかわいそうだけど、不吉だと後ろ指を指されて、サラもつらい。これまた長ーい嘆きの祈りを唱えながら、首を吊って死のうとする。
ここでまた、続きは明日。
どうなるどうなる!?と気になって、ミサに通ってしまう。あんなに早起きが続いたのは人生であの日々だけだ。
二人の長い祈りは天まで届き、
神は大天使ラファエルを遣わしてトビトの息子、トビアが旅に出るのを助ける。
ババーン、大天使ラファエル登場!!
興奮に胸沸き踊ったところで続きははい、明日、となる。
トビアは、父トビトが昔親戚に貸したお金を回収しに旅に出、その先でサラに出会って結婚。
まぁ、なんて上手くできたシナリオ。
そしてトビアは死ななかった!
借金も回収できたしトビアとサラが一緒に戻ったら、トビトの目も見えるようになって、
大喜びで捧げた感謝の祈りがまた長いのなんの。
そしてトビトは長寿の沖縄人もインド人もびっくりするくらい長生きしたらしい。
はちゃめちゃな話だと何度も思う。
誰が考え付くねん、こんな話。橋田スガコもびっくりだよ。
でも、自分のせいではないはずなのに、生きていれば悲劇は何度も何度もこの身に起きる。それは誰の身にもよくある話。
人を疑い、神を呪って、でも神にすがらずにはいられない。出会った人に助けられて生きていくしかない。
だからトビトやサラの切実な訴えに、祈りに、何度も泣いた。
だから大天使ラファエルの登場に、泣いた。
神様が用意したニクい演出に、泣いた。
トビトの物語は、私の物語だ。
サラの嘆きはあなたの叫び。
誰もがトビアのように旅をして、きっとその隣を大天使ラファエルが歩いている。
そうだと気がつかなくても、後できっと分かる。
私の隣を歩く大天使ラファエルは、あなた。
そしてあなたの隣を歩く大天使ラファエルは、私だといいなと思う。
トビトやサラやトビアの物語が、あなたにも私にも、昨日も今日も訪れている。
あと100年経ったらエステル記とマカバイ記の間くらいにさりげなく「イノウエ記」が入っているかもしれない!
明日笑うために、今日泣くんだ。この声はきっと届く。だから隣には大天使ラファエルがいる。
そうと分かれば思いっきり大声で泣いたらいい。
神様がおまけで大天使ミカエルも付けてくれるかもしれないから。
私なんて大声でびーびー泣くから、
きっと右にラファエル、左にミカエル、後ろにガブリエル、前にウリエルがついているに違いない。
それにしては何もないところでよく蹴躓くけど、、、、、、、、、
その辺もうちょっとちゃんと守って欲しいわぁ。
たどり着いた「隠れ家」に転がり込んだ後も、カーテンも閉めて電気も消して何時間もじっと座って息を殺していた。
暗くなっても電気をつける気になれず、テレビをつけてみてもその音量に怖じ気付いてすぐに消した。
誰かが追いかけてくるんじゃないかって、そんなはずは絶対にないのに、どうしても気になった。
眠れない一晩を布団の中でまんじりと過ごし、夢なのかぼやけた意識の断片にいるのかわからなくなった頃、となりにある教会の鐘が鳴った。衣擦れの足音がかすかに聞こえる静かな夜明けだった。
どうせこのまま眠れずに会社に行くのだから、とミサに出た。
朗読された聖書は「トビト記」だった。
トビトは非常に善良な、神に忠実で正しい人であったのに、昼寝の最中に鳥の糞が落ちてきて失明してしまう。
びっくりな幕開けに眠気が吹っ飛んだ。
続きが気になれば聖書を開いて読めばいいのだけど、なんだかそれもつまらない。
続きは次の日に読まれると知ったので、つられて次の日も朝のミサに出た。
トビトには次々に災難が降り懸かる。
なんでこんな目に遭うのか、
神様いっそ、私の命を今終わらせてください、とトビトは長い長い長い長い祈りを捧げる。やたら長くてそれだけで一日分の朗読箇所になっていた。
いい人に限ってひどい目に遭う。鳥の糞で失明だけでもほんと凹むよ、いろんな意味で。
一方その頃。
場所は遠く離れたところで、サラという若い女性にも悲劇が起きていた。
え?トビトはどうなったの?
と思ったけど、こちらもなかなかな悲劇。
7回も結婚したのに初夜を迎える前に相手が死んでしまうのだった。花嫁と結ばれずに死んでしまった7人の花婿もかわいそうだけど、不吉だと後ろ指を指されて、サラもつらい。これまた長ーい嘆きの祈りを唱えながら、首を吊って死のうとする。
ここでまた、続きは明日。
どうなるどうなる!?と気になって、ミサに通ってしまう。あんなに早起きが続いたのは人生であの日々だけだ。
二人の長い祈りは天まで届き、
神は大天使ラファエルを遣わしてトビトの息子、トビアが旅に出るのを助ける。
ババーン、大天使ラファエル登場!!
興奮に胸沸き踊ったところで続きははい、明日、となる。
トビアは、父トビトが昔親戚に貸したお金を回収しに旅に出、その先でサラに出会って結婚。
まぁ、なんて上手くできたシナリオ。
そしてトビアは死ななかった!
借金も回収できたしトビアとサラが一緒に戻ったら、トビトの目も見えるようになって、
大喜びで捧げた感謝の祈りがまた長いのなんの。
そしてトビトは長寿の沖縄人もインド人もびっくりするくらい長生きしたらしい。
はちゃめちゃな話だと何度も思う。
誰が考え付くねん、こんな話。橋田スガコもびっくりだよ。
でも、自分のせいではないはずなのに、生きていれば悲劇は何度も何度もこの身に起きる。それは誰の身にもよくある話。
人を疑い、神を呪って、でも神にすがらずにはいられない。出会った人に助けられて生きていくしかない。
だからトビトやサラの切実な訴えに、祈りに、何度も泣いた。
だから大天使ラファエルの登場に、泣いた。
神様が用意したニクい演出に、泣いた。
トビトの物語は、私の物語だ。
サラの嘆きはあなたの叫び。
誰もがトビアのように旅をして、きっとその隣を大天使ラファエルが歩いている。
そうだと気がつかなくても、後できっと分かる。
私の隣を歩く大天使ラファエルは、あなた。
そしてあなたの隣を歩く大天使ラファエルは、私だといいなと思う。
トビトやサラやトビアの物語が、あなたにも私にも、昨日も今日も訪れている。
あと100年経ったらエステル記とマカバイ記の間くらいにさりげなく「イノウエ記」が入っているかもしれない!
明日笑うために、今日泣くんだ。この声はきっと届く。だから隣には大天使ラファエルがいる。
そうと分かれば思いっきり大声で泣いたらいい。
神様がおまけで大天使ミカエルも付けてくれるかもしれないから。
私なんて大声でびーびー泣くから、
きっと右にラファエル、左にミカエル、後ろにガブリエル、前にウリエルがついているに違いない。
それにしては何もないところでよく蹴躓くけど、、、、、、、、、
その辺もうちょっとちゃんと守って欲しいわぁ。
暁太鼓、春の練習会 [日々の徒然]
数年前の日記だけど昨日部長とメールしたから載せておこう。
「暁太鼓、春の練習会」
春分の日、留学時代の部活の同窓会があった。
所属していたのは太鼓部。その名の通り、和太鼓を演奏するクラブ活動である。広島で免状を取ったイギリス人が師匠で、メンバーも多国籍だったから、卒業後は世界中に仲間が散らばった。
スタジオと太鼓を借りられたから練習会をしよう、と連絡が来たのは一ヶ月前。当時のメンバーと一緒に太鼓を叩くのはおよそ十年振りになる。
待ち合わせ場所は真昼間の雷門。祝日の浅草はものすごい人込みでごった返している。
その人込みの中で、十年振りに会うメンバーを、まさかあれほど簡単に見つけられるとは思わなかった。
「よ、ひさしぶり」
と互いに口にしてはみるものの、そんな挨拶は妙にくすぐったい。だって、全く久しぶりな感じがしないのだ。
部の創設からやむなく廃部に至るまでの、十五代近くに亘る先輩後輩が十人ほど集まった。顔を合わせるのも初めてなら、一緒に演奏するのも初めてのメンバーが多い。それでも、楽譜もなく、ツクドンツクドン、ツクドンドン、と口伝えでつないだリズムは皆の体の仲に染みていて、叩けば叩くほどに体から音が湧いてくる。何年振りだろうが、初めてだろうが、一緒に叩くための細かい説明は必要なかった。
三時間ほど汗を書いたあと、飲み会へと流れる。
イギリスで和太鼓、という稀有な活動をしていた私たちは、おかげで私たちにしかできなかった稀有な体験をした。イギリス国内、ヨーロッパ各地へ演奏旅行に出掛けたことだけでなく、日々の練習の一つ一つにも笑いがあり涙があった。それはどの代でも同じこと。
だから一度も交わらなかった後輩たちとも話は尽きることがない。
私がいた頃、私がいなくなってからのこと。メンバーの名前、公演へ行った時のドタバタ四方山話。大学周辺の町の様子。共通の先生たち。
「あったね、そんなこと」
「街は結構変わったんだね」
「久しぶりに聞いたな、その名前」
そんな台詞が飛び交う中、しかし誰一人として昔を懐かしんでいる様子はない。
それまでの人生で、イギリスで太鼓を叩いていた期間が一番濃密で輝いていた、と認めながらも、それを懐かしんで取り戻したいと思っている顔はなかった。
昨日も同じように集まって、叩いて飲んで食べて笑って話していた。
今日もそうしているし、明日もそうする。アタリマエでしょ。そういう顔だ。
久しぶりのメンバーも、初めて会うメンバーも
「今日は会えてよかった。ありがとう」
「ぜひまたやろう」
と、互いに握手をして別れた。
私たちは思い出す。でも懐かしまない。
あの日々は戻らない。でも惜しまない。
私たちは今日を生きているから。
「今」が私たちの中で生きているから。
明日また、当たり前のように会えるのが楽しみだから。
明日が来るのが楽しみだから。
次の練習会はゴールデンウィークにやるぞ、と昨日メールが来た。
で、、、ゴールデンウィークが何度か過ぎちゃったんですけど?
歴代部長!せっかく3人も日本にいるんだから招集かけてくださいよ!
前は地球上どこにいても上野まで呼びつけられたじゃないですか、この際シンガポールの二代目も呼んで下さい。
三代目部長、コロッケ揚げてる場合じゃないですよー(同期の部長は行列のできるコロッケ屋のコロッケ名人)
「暁太鼓、春の練習会」
春分の日、留学時代の部活の同窓会があった。
所属していたのは太鼓部。その名の通り、和太鼓を演奏するクラブ活動である。広島で免状を取ったイギリス人が師匠で、メンバーも多国籍だったから、卒業後は世界中に仲間が散らばった。
スタジオと太鼓を借りられたから練習会をしよう、と連絡が来たのは一ヶ月前。当時のメンバーと一緒に太鼓を叩くのはおよそ十年振りになる。
待ち合わせ場所は真昼間の雷門。祝日の浅草はものすごい人込みでごった返している。
その人込みの中で、十年振りに会うメンバーを、まさかあれほど簡単に見つけられるとは思わなかった。
「よ、ひさしぶり」
と互いに口にしてはみるものの、そんな挨拶は妙にくすぐったい。だって、全く久しぶりな感じがしないのだ。
部の創設からやむなく廃部に至るまでの、十五代近くに亘る先輩後輩が十人ほど集まった。顔を合わせるのも初めてなら、一緒に演奏するのも初めてのメンバーが多い。それでも、楽譜もなく、ツクドンツクドン、ツクドンドン、と口伝えでつないだリズムは皆の体の仲に染みていて、叩けば叩くほどに体から音が湧いてくる。何年振りだろうが、初めてだろうが、一緒に叩くための細かい説明は必要なかった。
三時間ほど汗を書いたあと、飲み会へと流れる。
イギリスで和太鼓、という稀有な活動をしていた私たちは、おかげで私たちにしかできなかった稀有な体験をした。イギリス国内、ヨーロッパ各地へ演奏旅行に出掛けたことだけでなく、日々の練習の一つ一つにも笑いがあり涙があった。それはどの代でも同じこと。
だから一度も交わらなかった後輩たちとも話は尽きることがない。
私がいた頃、私がいなくなってからのこと。メンバーの名前、公演へ行った時のドタバタ四方山話。大学周辺の町の様子。共通の先生たち。
「あったね、そんなこと」
「街は結構変わったんだね」
「久しぶりに聞いたな、その名前」
そんな台詞が飛び交う中、しかし誰一人として昔を懐かしんでいる様子はない。
それまでの人生で、イギリスで太鼓を叩いていた期間が一番濃密で輝いていた、と認めながらも、それを懐かしんで取り戻したいと思っている顔はなかった。
昨日も同じように集まって、叩いて飲んで食べて笑って話していた。
今日もそうしているし、明日もそうする。アタリマエでしょ。そういう顔だ。
久しぶりのメンバーも、初めて会うメンバーも
「今日は会えてよかった。ありがとう」
「ぜひまたやろう」
と、互いに握手をして別れた。
私たちは思い出す。でも懐かしまない。
あの日々は戻らない。でも惜しまない。
私たちは今日を生きているから。
「今」が私たちの中で生きているから。
明日また、当たり前のように会えるのが楽しみだから。
明日が来るのが楽しみだから。
次の練習会はゴールデンウィークにやるぞ、と昨日メールが来た。
で、、、ゴールデンウィークが何度か過ぎちゃったんですけど?
歴代部長!せっかく3人も日本にいるんだから招集かけてくださいよ!
前は地球上どこにいても上野まで呼びつけられたじゃないですか、この際シンガポールの二代目も呼んで下さい。
三代目部長、コロッケ揚げてる場合じゃないですよー(同期の部長は行列のできるコロッケ屋のコロッケ名人)
トラブルはいけません [日々の徒然]
パン屋さんで、店員と外国人客が困っていた。
お客が、緑色の豆がごろごろ入ったパンを指し、日本語で
「このパンは塩味なのか、甘いのか。食事用か、おやつか」
という趣旨のことを店員さんに聞いている。
甘納豆が練り込まれたパンってよくあるけど、
豆を甘く煮るなんてきっと外国人にはびっくりで、確認したかったんだろうな。
でも、店員さんにはエジプト人(みたいな見た目の人)の言葉が日本語には聞こえなかったみたい。
てっきり外国語(だかどうだかわからないけど英語だろ?)と思ったみたいで、
「ソーリー、俺 ノー イングリッシュ。ジャパン プリーズ」(ごめんなさい、オ・レ!英語はダメです。日本をください)
と外国人相手に無茶苦茶なおねだりをしていた。
ますます困った外国人客は、方針変更(シフトチェンジ)して、英語で
「ソルティ?スウィート?」
と聞いた。
本当に英語で聞かれた店員さんはさらに困って、
「ウエイト、ウエイト。 あー・・ミー ジャパン バット 店長 オーケー。 オーケー?」(重量、体重。あぁ、私に日本を。コウモリ店長は大丈夫です。いい?)」
と店長を差し置いて自分だけが日本をもらおうとし始めた。
どんなにすごいおねだりをしたところでパンを買いに来ただけのエジプト人(に見える人)にはそれが叶えられるほどの権力があるとも思えない。
だけどこの際、いっそ一か八かでいろいろ頼んでみたらチョコレートくらいはくれるかも、頑張れ、店員さん!
でも店員さんがお留守なおかげでレジに8人も並んでいたから、
「塩味ですよ。ソルティ」
と口を挟んでしまいました。
エジプト人(かどうか分からないけどインド人でないことは確か)は
「おぅ。Thank you.」
と言って、急に早口英語で『パン・ドゥ・ミ』と『パリジャン』の違いや『男爵』の読み方とその意味を聞いてきた。
ちなみに最初の二つはフランスパンっぽいパンで、『男爵』は食パンの商品名。
いずれもわたしにはまったくの専門外だけど、答えてあげたら非常に感謝されて、大変丁寧にお礼を言われたので、
さらり、と涼しげに
「No probrem」(ノープロブレム:いいんですよ)
と
言おうとして
「ノー トラブル」(いざこざは、いけません)
と言ってしまった!!!!!!!はーーーずかしかったーーーーーー!
お客が、緑色の豆がごろごろ入ったパンを指し、日本語で
「このパンは塩味なのか、甘いのか。食事用か、おやつか」
という趣旨のことを店員さんに聞いている。
甘納豆が練り込まれたパンってよくあるけど、
豆を甘く煮るなんてきっと外国人にはびっくりで、確認したかったんだろうな。
でも、店員さんにはエジプト人(みたいな見た目の人)の言葉が日本語には聞こえなかったみたい。
てっきり外国語(だかどうだかわからないけど英語だろ?)と思ったみたいで、
「ソーリー、俺 ノー イングリッシュ。ジャパン プリーズ」(ごめんなさい、オ・レ!英語はダメです。日本をください)
と外国人相手に無茶苦茶なおねだりをしていた。
ますます困った外国人客は、方針変更(シフトチェンジ)して、英語で
「ソルティ?スウィート?」
と聞いた。
本当に英語で聞かれた店員さんはさらに困って、
「ウエイト、ウエイト。 あー・・ミー ジャパン バット 店長 オーケー。 オーケー?」(重量、体重。あぁ、私に日本を。コウモリ店長は大丈夫です。いい?)」
と店長を差し置いて自分だけが日本をもらおうとし始めた。
どんなにすごいおねだりをしたところでパンを買いに来ただけのエジプト人(に見える人)にはそれが叶えられるほどの権力があるとも思えない。
だけどこの際、いっそ一か八かでいろいろ頼んでみたらチョコレートくらいはくれるかも、頑張れ、店員さん!
でも店員さんがお留守なおかげでレジに8人も並んでいたから、
「塩味ですよ。ソルティ」
と口を挟んでしまいました。
エジプト人(かどうか分からないけどインド人でないことは確か)は
「おぅ。Thank you.」
と言って、急に早口英語で『パン・ドゥ・ミ』と『パリジャン』の違いや『男爵』の読み方とその意味を聞いてきた。
ちなみに最初の二つはフランスパンっぽいパンで、『男爵』は食パンの商品名。
いずれもわたしにはまったくの専門外だけど、答えてあげたら非常に感謝されて、大変丁寧にお礼を言われたので、
さらり、と涼しげに
「No probrem」(ノープロブレム:いいんですよ)
と
言おうとして
「ノー トラブル」(いざこざは、いけません)
と言ってしまった!!!!!!!はーーーずかしかったーーーーーー!
主なしとて春を忘れず [日々の徒然]
長崎滞在中、スポーツクラブ内にある温泉施設を度々利用している。
地震も津波も停電も放射能汚染も、
身に迫る恐怖や不安、不便からは遠く離れて、すべては数十インチの画面の中で過ぎていくように感じてしまう。
他人事とは思えない部分はたくさんあるのに、わたしの気持ちも体も長いこと動かされずにいた。
最初に必ず温めの泡風呂に入る。
底からボコボコと上がる気泡と小波が、わたしの体をほんの少し浮かしては押し、どこへともなく流れていく。
その中でわたしは、五歳の夏に経験した長崎大水害を思い出していた。
夏休みに入ってすぐのその日、お出かけ好きの我が家は家族全員で浜んまち(浜の町)の夏祭りへ出かけていた。
アーケードになった商店街の店をいくつも冷やかして「浜ブラ」し、楽しんだ。
夕方から降り出した雨がひどくなっていた。
側溝の水かさが増していたので、わたしと弟はお店でもらったおもちゃの船を流して遊んだのを覚えている。
雨はひどくなるばかり。
その時、両親はネズミが何匹も溝を流れていくのを見たそうだ。
これは早めに帰った方がいい、と判断した父が車を取りに駐車していた教会へ行ったが、
その途中、向こうから来るおじさんに
「こっちは来たら危ない、行ったらいかん、引き返せ」
と言われたという。
残された私たちは好文堂(書店)で本を読みながら待っていたが、父が戻ってきたときには足元はもうちゃぷちゃぷしていた。
本を読み始めると夢中になってしまうわたしと弟を本棚から引きはがし、
(ストーブの前で本を読んでいて、背中が焦げるのも気づかず読み続けていたこともある)
とにかく歩いて中央橋を渡り、川を越えて丘向こうの自宅へ帰ろうと歩き始めた。
200mほど歩いてアーケードの端にたどり着いたころには、水かさはわたしの膝くらいまで来ていた。
中央橋は、橋も海も川も区別がつかない。
スクーターやバイクはひっくり返ってぷかぷか浮いていた。
車を乗り捨てて逃げた人もいたけれど、タクシーやバスの運転手さんはそうもいかず、運転席でぼんやり。今思うとどの車もすべてエンジンが水につかって壊れていたのだろう。
母は弟2を抱き、父が弟1を抱いてわたしの手をつなぎ、みんなで中央橋を渡った。
赤信号だったけれど、じゃぶじゃぶ渡った。
土砂降りの雨の音がすごくて、他にはほとんどなにも聞こえない。足元を何かが流れていくけれど真っ暗で何も見えない。
父の声も母の声も聞こえず、顔も姿もあまり見えなかった。あるいは全員無言で必死に歩いたのだろう。
ふと横目に煌々と明るいパチンコ屋さんが目に入る。壊れて閉まったままの自動扉の隙間から、ぴゅーぴゅー水が流れ込んでいた。ガラスの扉を一枚隔ててこちらは、膝まで水につかってじゃぶじゃぶ歩いているのに、中ではお客がまだパチンコをしていた。ものすごく不思議な光景だと思った。
県庁坂の一本脇を上り、丘を越えてNBCのすぐ上にあった自宅へたどり着いた。
とにもかくにもお風呂へ、と放り込まれた。家族全員でお風呂に入ったのは後にも先にもこれ一度きり。
やっと父と母が笑ってくれたのでホッとした。わたしが思い出す父の笑顔がいつも細面なのは、この時の記憶のせいだ。
先に上がった父が、
「ラジオをつけたら、今、中央橋が決壊して流された、と言っている。人がたくさん流されたそうだ。間一髪だった」
と言った。
その夏は、ずっと大変だった。
すぐに泥水しか出なくなったので、わたしもバケツを持って給水車に並んだ。
教会が水に浸かったので、牧師の娘さんがしばらくうちに非難しに来た。
幼稚園の教会も地下の信徒ホールが全部泥で埋まった。
幼稚園の前の道路が壊れてえぐれた。
大好きなワタナベ先生の歯科医院も水に浸かった。
眼鏡橋も、眼鏡橋を見る時に渡っていた橋も、流された。
いつも遊んでいた中島川の川べりは、もう川なんかじゃなかった。
山が崩れて禿げた。
あの夏を境に、私の知っていた長崎はすべて流されてしまった。
渡辺先生の歯科医院は木造の床と薄暗い廊下のせいで古臭い感じだったけど、その分先生が明るかった。
釣りが大好きで、診療のついでに魚拓を見せてくれたり、「今日いいのが釣れたから!」とおすそ分けに届けてくれたりした。
水害の後、診療所は新しくなったけど先生は数年後に亡くなった。水害のショックと再建の苦労がたたったのだと奥さんが話していた。
七夕に開かれていた中島川祭りも、それからもうずっと開催されなくなってしまった。
水面が光って眩しい川沿いに、市民がござを敷いてお店を開くフリーマーケットは本当に楽しかったのに。
前年も楽しんで、水害の直前もお店を見てまわって
「また来年も来ようね」
って話してたのに。
あっちこっちで、何もかもがぐっちゃぐちゃになって、海が腐った匂いがして、たくさんの人が泣いてた。
町がきれいになっても私が知っている長崎ではなかったし、腐った海の匂いは鼻に残ったし、泣いた人に笑顔が戻ってもその人を見ると泣き顔を思い出した。
長崎市内で、亡くなったはのは300人。
行方不明者の一人はわたしと同じ五歳の男の子だったが、遺体が見つからないまま何年も後に死亡者として数えられた。
水害の日のことを、怖いと思ったことはなかった。
何度も母が「大丈夫、大丈夫」って言ってくれたから。
握ってくれた父の手が力強かったから。
でも、悲しかった。
五歳だった私にも、思い出があったから。
復興を果たしても、水害を知らない世代が増えても、水害の日の危機一髪体験をおかしく話せるようになっても、
楽しい記憶のある場所が一瞬にしてその姿を変えてしまったのはとても悲しかった。
そして悲しかったことを、ずっと気づかずにいた。
水害にあってから初めて、今日、泣いた。
たくさん、泣いた。
ああ、悲しかったんだ、泣きたかったんだ、と思った。
眼鏡橋は、海に流れた石まで一つ一つ拾い集められて復元された。
中島川祭りは、何年も何年も経った後、再開された。
家も街も川も橋も、作り直された。
だから、物は流されても拾いに行けばいい。壊れても作り直せばいい。倒れても起き上がればいい。
だから、帰らない人の命と思い出は、わたしが(あなたが)忘れないでいよう。
大事に持って、大切に覚えていよう。
いつか涙とともに、でもまた笑顔で、懐かしめる日がきっと来る。
何十年先でもいい。
その日が来るまで、一緒に待ちたい。

人間や町がどんなに戸惑っておろおろしても、自然は悠然と季節を生きているように見える。
自然は春を忘れず、花を咲かせている。
長崎の桜は、もう四分咲きだ。
地震も津波も停電も放射能汚染も、
身に迫る恐怖や不安、不便からは遠く離れて、すべては数十インチの画面の中で過ぎていくように感じてしまう。
他人事とは思えない部分はたくさんあるのに、わたしの気持ちも体も長いこと動かされずにいた。
最初に必ず温めの泡風呂に入る。
底からボコボコと上がる気泡と小波が、わたしの体をほんの少し浮かしては押し、どこへともなく流れていく。
その中でわたしは、五歳の夏に経験した長崎大水害を思い出していた。
夏休みに入ってすぐのその日、お出かけ好きの我が家は家族全員で浜んまち(浜の町)の夏祭りへ出かけていた。
アーケードになった商店街の店をいくつも冷やかして「浜ブラ」し、楽しんだ。
夕方から降り出した雨がひどくなっていた。
側溝の水かさが増していたので、わたしと弟はお店でもらったおもちゃの船を流して遊んだのを覚えている。
雨はひどくなるばかり。
その時、両親はネズミが何匹も溝を流れていくのを見たそうだ。
これは早めに帰った方がいい、と判断した父が車を取りに駐車していた教会へ行ったが、
その途中、向こうから来るおじさんに
「こっちは来たら危ない、行ったらいかん、引き返せ」
と言われたという。
残された私たちは好文堂(書店)で本を読みながら待っていたが、父が戻ってきたときには足元はもうちゃぷちゃぷしていた。
本を読み始めると夢中になってしまうわたしと弟を本棚から引きはがし、
(ストーブの前で本を読んでいて、背中が焦げるのも気づかず読み続けていたこともある)
とにかく歩いて中央橋を渡り、川を越えて丘向こうの自宅へ帰ろうと歩き始めた。
200mほど歩いてアーケードの端にたどり着いたころには、水かさはわたしの膝くらいまで来ていた。
中央橋は、橋も海も川も区別がつかない。
スクーターやバイクはひっくり返ってぷかぷか浮いていた。
車を乗り捨てて逃げた人もいたけれど、タクシーやバスの運転手さんはそうもいかず、運転席でぼんやり。今思うとどの車もすべてエンジンが水につかって壊れていたのだろう。
母は弟2を抱き、父が弟1を抱いてわたしの手をつなぎ、みんなで中央橋を渡った。
赤信号だったけれど、じゃぶじゃぶ渡った。
土砂降りの雨の音がすごくて、他にはほとんどなにも聞こえない。足元を何かが流れていくけれど真っ暗で何も見えない。
父の声も母の声も聞こえず、顔も姿もあまり見えなかった。あるいは全員無言で必死に歩いたのだろう。
ふと横目に煌々と明るいパチンコ屋さんが目に入る。壊れて閉まったままの自動扉の隙間から、ぴゅーぴゅー水が流れ込んでいた。ガラスの扉を一枚隔ててこちらは、膝まで水につかってじゃぶじゃぶ歩いているのに、中ではお客がまだパチンコをしていた。ものすごく不思議な光景だと思った。
県庁坂の一本脇を上り、丘を越えてNBCのすぐ上にあった自宅へたどり着いた。
とにもかくにもお風呂へ、と放り込まれた。家族全員でお風呂に入ったのは後にも先にもこれ一度きり。
やっと父と母が笑ってくれたのでホッとした。わたしが思い出す父の笑顔がいつも細面なのは、この時の記憶のせいだ。
先に上がった父が、
「ラジオをつけたら、今、中央橋が決壊して流された、と言っている。人がたくさん流されたそうだ。間一髪だった」
と言った。
その夏は、ずっと大変だった。
すぐに泥水しか出なくなったので、わたしもバケツを持って給水車に並んだ。
教会が水に浸かったので、牧師の娘さんがしばらくうちに非難しに来た。
幼稚園の教会も地下の信徒ホールが全部泥で埋まった。
幼稚園の前の道路が壊れてえぐれた。
大好きなワタナベ先生の歯科医院も水に浸かった。
眼鏡橋も、眼鏡橋を見る時に渡っていた橋も、流された。
いつも遊んでいた中島川の川べりは、もう川なんかじゃなかった。
山が崩れて禿げた。
あの夏を境に、私の知っていた長崎はすべて流されてしまった。
渡辺先生の歯科医院は木造の床と薄暗い廊下のせいで古臭い感じだったけど、その分先生が明るかった。
釣りが大好きで、診療のついでに魚拓を見せてくれたり、「今日いいのが釣れたから!」とおすそ分けに届けてくれたりした。
水害の後、診療所は新しくなったけど先生は数年後に亡くなった。水害のショックと再建の苦労がたたったのだと奥さんが話していた。
七夕に開かれていた中島川祭りも、それからもうずっと開催されなくなってしまった。
水面が光って眩しい川沿いに、市民がござを敷いてお店を開くフリーマーケットは本当に楽しかったのに。
前年も楽しんで、水害の直前もお店を見てまわって
「また来年も来ようね」
って話してたのに。
あっちこっちで、何もかもがぐっちゃぐちゃになって、海が腐った匂いがして、たくさんの人が泣いてた。
町がきれいになっても私が知っている長崎ではなかったし、腐った海の匂いは鼻に残ったし、泣いた人に笑顔が戻ってもその人を見ると泣き顔を思い出した。
長崎市内で、亡くなったはのは300人。
行方不明者の一人はわたしと同じ五歳の男の子だったが、遺体が見つからないまま何年も後に死亡者として数えられた。
水害の日のことを、怖いと思ったことはなかった。
何度も母が「大丈夫、大丈夫」って言ってくれたから。
握ってくれた父の手が力強かったから。
でも、悲しかった。
五歳だった私にも、思い出があったから。
復興を果たしても、水害を知らない世代が増えても、水害の日の危機一髪体験をおかしく話せるようになっても、
楽しい記憶のある場所が一瞬にしてその姿を変えてしまったのはとても悲しかった。
そして悲しかったことを、ずっと気づかずにいた。
水害にあってから初めて、今日、泣いた。
たくさん、泣いた。
ああ、悲しかったんだ、泣きたかったんだ、と思った。
眼鏡橋は、海に流れた石まで一つ一つ拾い集められて復元された。
中島川祭りは、何年も何年も経った後、再開された。
家も街も川も橋も、作り直された。
だから、物は流されても拾いに行けばいい。壊れても作り直せばいい。倒れても起き上がればいい。
だから、帰らない人の命と思い出は、わたしが(あなたが)忘れないでいよう。
大事に持って、大切に覚えていよう。
いつか涙とともに、でもまた笑顔で、懐かしめる日がきっと来る。
何十年先でもいい。
その日が来るまで、一緒に待ちたい。
人間や町がどんなに戸惑っておろおろしても、自然は悠然と季節を生きているように見える。
自然は春を忘れず、花を咲かせている。
長崎の桜は、もう四分咲きだ。
She is so cool. [日々の徒然]
伯母のお見舞いに行きました [日々の徒然]
Kおばちゃんが入院した。
父の姉であるこの伯母は独身でホームに暮らしているため、ひとまずは私の従兄と母が駆けつけた。
伯母は命を取り留めた代わり、喉に管を通すため声を失った。
処置が終わった後、従兄が伯母に
「何か欲しいものはないか、持ってきて欲しいものは、必要なものはないか」
と聞くと、伯母はティッシュ箱の裏の隅っこに、父の名前を書いたそうだ。
私たちは弟1を留守番に残し、家族でお見舞いに行くことにした。
父はレンタカーを手配し、法定速度を守りながら車を飛ばした。
私たちは案外のんきで、久しぶりの家族旅行よろしく途中のサービスエリアで海鮮丼何ぞ食べたり、車窓から見える海や富士山に声を上げたりした。
伯母は、ものすごく喜んだ。
握手して、ハグして、お見舞いのカードを渡し、伯母はそれを読んだ。ネットからダウンロードして裏紙に印刷したクリプトグラム(暗号解読ゲーム)の束も渡した。伯母は大きく頷きながら指で丸印を作った。クリプトグラムは伯母の一番の楽しみなのだ。
声が出せないので筆談用のペンとノートを持っていたけれど、もともと身振り手振りの多い人なのでそんなに不自由さは感じなかった。でも、聖歌隊の指揮者をしていた伯母のこと、声を出せないのは大変につらいことだろう。
父は持参したゴスペルの楽譜と賛美歌を開いて、伯母がリクエストするままに、何曲も何曲も歌った。
途中、一時間ほど伯母と私は病室に二人だけになり、私は伯母の爪を切ってヤスリをかけた。クリームも塗った。
私なんぞより遥かに腹筋があって、いろんな管につながれている人とは思えない動きで起き上がるのでびっくりした。
再び病室が満員になると、伯母が
「あんたも歌いなさいよ」
と手で指示するので、4人でも何曲か歌った。
弟2の歌声なんて初めて聞いたわ、と母は言い、
「パパと声が似ているからどっちが歌っているのかわからなかったわ」
と言うと、弟2は
「いや、どっちも歌っていたんですけどね」
と笑っていた。そりゃその通り。
最後に「いつくしみふかき」をもう一度家族みんなで歌い、手をつないでお祈りして、握手して、ハグして、病室を後にした。
案外のんきな私たちは、帰り道も賑わっているサービスエリアに立ち寄ってご飯を食べ、車の中で様々におしゃべりしながら帰ってきた。
次のお見舞い旅行も楽しみだ。
でも、早く元気になってまたうちに泊まりに来てよね、おばちゃん!
父の姉であるこの伯母は独身でホームに暮らしているため、ひとまずは私の従兄と母が駆けつけた。
伯母は命を取り留めた代わり、喉に管を通すため声を失った。
処置が終わった後、従兄が伯母に
「何か欲しいものはないか、持ってきて欲しいものは、必要なものはないか」
と聞くと、伯母はティッシュ箱の裏の隅っこに、父の名前を書いたそうだ。
私たちは弟1を留守番に残し、家族でお見舞いに行くことにした。
父はレンタカーを手配し、法定速度を守りながら車を飛ばした。
私たちは案外のんきで、久しぶりの家族旅行よろしく途中のサービスエリアで海鮮丼何ぞ食べたり、車窓から見える海や富士山に声を上げたりした。
伯母は、ものすごく喜んだ。
握手して、ハグして、お見舞いのカードを渡し、伯母はそれを読んだ。ネットからダウンロードして裏紙に印刷したクリプトグラム(暗号解読ゲーム)の束も渡した。伯母は大きく頷きながら指で丸印を作った。クリプトグラムは伯母の一番の楽しみなのだ。
声が出せないので筆談用のペンとノートを持っていたけれど、もともと身振り手振りの多い人なのでそんなに不自由さは感じなかった。でも、聖歌隊の指揮者をしていた伯母のこと、声を出せないのは大変につらいことだろう。
父は持参したゴスペルの楽譜と賛美歌を開いて、伯母がリクエストするままに、何曲も何曲も歌った。
途中、一時間ほど伯母と私は病室に二人だけになり、私は伯母の爪を切ってヤスリをかけた。クリームも塗った。
私なんぞより遥かに腹筋があって、いろんな管につながれている人とは思えない動きで起き上がるのでびっくりした。
再び病室が満員になると、伯母が
「あんたも歌いなさいよ」
と手で指示するので、4人でも何曲か歌った。
弟2の歌声なんて初めて聞いたわ、と母は言い、
「パパと声が似ているからどっちが歌っているのかわからなかったわ」
と言うと、弟2は
「いや、どっちも歌っていたんですけどね」
と笑っていた。そりゃその通り。
最後に「いつくしみふかき」をもう一度家族みんなで歌い、手をつないでお祈りして、握手して、ハグして、病室を後にした。
案外のんきな私たちは、帰り道も賑わっているサービスエリアに立ち寄ってご飯を食べ、車の中で様々におしゃべりしながら帰ってきた。
次のお見舞い旅行も楽しみだ。
でも、早く元気になってまたうちに泊まりに来てよね、おばちゃん!
ワタシハナニジンデスカ? [日々の徒然]
日曜日は午前中のミサに行けませんでした。
午後の英語ミサに与りました。
その日は主任神父様も調子が悪かったらしく、英語ミサには急遽ピンチヒッターでポーランド人の神父様がいらっしゃいました。
ミサが終わったあと、たまたま途中までその神父様と同じ電車に乗ることに。
日本語で
「神父様、どこまでですか?」
と尋ねると、神父様は
「シブゥヤ」
と答えて、そのあと私に向かってこう言いました。
「ニホンゴ オジョーズ デスネ」
えー・・・・・と。
私、一応日本人のつもりですが、どうですかね?
急に自信がなくなりました。
日本人に見えなかったのでしょうか。
なぜ?ホワーイ?
その日かぶっていたお気に入りの帽子(今年最初の日記を参照のこと)のせいでしょうか?
実はこういうこと、なぜかよくあります。
見知らぬ外国人に、はなっから英語が話せる前提でよく話しかけられます。道を聞かれたりとか。
「日本に住んで何年になるんだ?」と聞かれたこともあります。
父の同僚から、海外旅行中に私のドッペルゲンガーを見た、という報告を受けたこともあります(爆笑!)
いやはや、とりあえず日本語は上手だってことがわかってよかった。
今のところそれしか日々の糧を得る手段がないもんで。
午後の英語ミサに与りました。
その日は主任神父様も調子が悪かったらしく、英語ミサには急遽ピンチヒッターでポーランド人の神父様がいらっしゃいました。
ミサが終わったあと、たまたま途中までその神父様と同じ電車に乗ることに。
日本語で
「神父様、どこまでですか?」
と尋ねると、神父様は
「シブゥヤ」
と答えて、そのあと私に向かってこう言いました。
「ニホンゴ オジョーズ デスネ」
えー・・・・・と。
私、一応日本人のつもりですが、どうですかね?
急に自信がなくなりました。
日本人に見えなかったのでしょうか。
なぜ?ホワーイ?
その日かぶっていたお気に入りの帽子(今年最初の日記を参照のこと)のせいでしょうか?
実はこういうこと、なぜかよくあります。
見知らぬ外国人に、はなっから英語が話せる前提でよく話しかけられます。道を聞かれたりとか。
「日本に住んで何年になるんだ?」と聞かれたこともあります。
父の同僚から、海外旅行中に私のドッペルゲンガーを見た、という報告を受けたこともあります(爆笑!)
いやはや、とりあえず日本語は上手だってことがわかってよかった。
今のところそれしか日々の糧を得る手段がないもんで。
私に遺されるもの [問はず語り]
「ねぇ、うちっておかねもち?」
「財産って何?うちに財産ある?どれくらい?」
「うちにあるもので『何でも鑑定団』に持って行ける物って、どれ?」
成長過程で子どもが親に聞く質問としては、しごく真っ当なものだろう。
私もこの手の質問を親に対して、特に父に対してした記憶がある。
しかし何度聞いても、父の返事は毎回、
「なぁーーーーーーーーーーーーんにも、ない」
だった。
我が家は、私が知っている限りで4代前からずっと、牧師家庭だ。
貯金も、財産も、お店も技術も、親から手渡されて受け継げるものは何もない。
住居も身の回りのものも、全部一代限りだ。
後を継ぐ家業の大変さや、それのない気楽さ、不安について話すつもりではない。
父も祖父も、曾祖母でさえも存命中に私に遺された遺産を、私は今日知ったという話だ。
ここ数日の間、調子がイマイチで、腹を立てたりイライラしたりしていた。
最後は悔しくて泣いた。
眠れずに迎えた朝、お決まりの変な夢の中でまどろみながら、なんとはなしに冒頭の質問が頭に浮かんだ。
『鑑定団』のくだりなんて、つい先日も父に聞いた質問だ。
父はこれまでとまったく同じ調子で
「なぁーーーーーーーーーーーーんにも、ない」
と答えた。
でも、私が小学校高学年くらいの頃、父が言った言葉を思い出した。
「うちの家系はみんな、手がちょっと小さいんだ。ずっとペンを持つ労働だからね」
バイオリンの練習で、いつも正しい場所まで指が届かなくてずれた音を出し続ける私に、言ったのだろうか。
ただ単に、自分の手が少し小振りなことを思ってなんとなく言ったのだろうか。
父が『始めに言葉があった』と書かれた書物を片手に、毎日読み、書き、話し、聞く姿は幼い頃から見てきた。
そして、祖父が生前そうだったことも、祖父が書き残したものや写真が教えてくれる。
同じく牧師だった曽祖父母も、和尚だった曽祖父も、同じだろう。
少なくとも150年前から、我が家は言葉を話し、読み、聞き、書くことで生き、食べ、家族を支えてきたということだ。
他所へ嫁に行ってしまえばこの苗字さえ失ってしまう私に、遺されるものがあるとしたら、これしかない。
相手に笑顔を、幸せを、平安を、勇気を、元気を、与える言葉。
これだけだ。
「ねぇ、うちっておかねもち?」「うんにゃ、びんぼう」
「財産って何?うちに財産ある?どれくらい?」「お金になる財産はゼロ。マイナスにしないのがやっとだな」
「うちにあるもので『何でも鑑定団』に持って行ける物って、どれ?」「なぁーーーーーーーんにも、ない」
でも、私にも父から手渡されたものがある。
曽祖父から、曾祖母から、祖父から、父から、母から、受け継げるものがある。遺されるものがある。
「うちには、これと、これだけさ」
あの時父はそう言って、まだ今よりもう一回りは小さかったはずの私の手を握り、
それからおでこをツンツン、とつついた。
あれを生前分与と呼ぶべきか。
しかし、私は、受け継いだものを、正しく、丁寧に、使わねばならない。
「財産って何?うちに財産ある?どれくらい?」
「うちにあるもので『何でも鑑定団』に持って行ける物って、どれ?」
成長過程で子どもが親に聞く質問としては、しごく真っ当なものだろう。
私もこの手の質問を親に対して、特に父に対してした記憶がある。
しかし何度聞いても、父の返事は毎回、
「なぁーーーーーーーーーーーーんにも、ない」
だった。
我が家は、私が知っている限りで4代前からずっと、牧師家庭だ。
貯金も、財産も、お店も技術も、親から手渡されて受け継げるものは何もない。
住居も身の回りのものも、全部一代限りだ。
後を継ぐ家業の大変さや、それのない気楽さ、不安について話すつもりではない。
父も祖父も、曾祖母でさえも存命中に私に遺された遺産を、私は今日知ったという話だ。
ここ数日の間、調子がイマイチで、腹を立てたりイライラしたりしていた。
最後は悔しくて泣いた。
眠れずに迎えた朝、お決まりの変な夢の中でまどろみながら、なんとはなしに冒頭の質問が頭に浮かんだ。
『鑑定団』のくだりなんて、つい先日も父に聞いた質問だ。
父はこれまでとまったく同じ調子で
「なぁーーーーーーーーーーーーんにも、ない」
と答えた。
でも、私が小学校高学年くらいの頃、父が言った言葉を思い出した。
「うちの家系はみんな、手がちょっと小さいんだ。ずっとペンを持つ労働だからね」
バイオリンの練習で、いつも正しい場所まで指が届かなくてずれた音を出し続ける私に、言ったのだろうか。
ただ単に、自分の手が少し小振りなことを思ってなんとなく言ったのだろうか。
父が『始めに言葉があった』と書かれた書物を片手に、毎日読み、書き、話し、聞く姿は幼い頃から見てきた。
そして、祖父が生前そうだったことも、祖父が書き残したものや写真が教えてくれる。
同じく牧師だった曽祖父母も、和尚だった曽祖父も、同じだろう。
少なくとも150年前から、我が家は言葉を話し、読み、聞き、書くことで生き、食べ、家族を支えてきたということだ。
他所へ嫁に行ってしまえばこの苗字さえ失ってしまう私に、遺されるものがあるとしたら、これしかない。
相手に笑顔を、幸せを、平安を、勇気を、元気を、与える言葉。
これだけだ。
「ねぇ、うちっておかねもち?」「うんにゃ、びんぼう」
「財産って何?うちに財産ある?どれくらい?」「お金になる財産はゼロ。マイナスにしないのがやっとだな」
「うちにあるもので『何でも鑑定団』に持って行ける物って、どれ?」「なぁーーーーーーーんにも、ない」
でも、私にも父から手渡されたものがある。
曽祖父から、曾祖母から、祖父から、父から、母から、受け継げるものがある。遺されるものがある。
「うちには、これと、これだけさ」
あの時父はそう言って、まだ今よりもう一回りは小さかったはずの私の手を握り、
それからおでこをツンツン、とつついた。
あれを生前分与と呼ぶべきか。
しかし、私は、受け継いだものを、正しく、丁寧に、使わねばならない。






